慶性院の石仏
金乗院の石仏

縁起

遍路道中の地図
 5番・西勝院
 9番・長光寺
 13番・天澤院
 3番・地蔵院

13番・天澤院    9番・長光寺     5番・西勝院     3番・地蔵院

 15番・常福寺は関東91薬師の8番と、関東88ヶ所の91番も兼務
 23番・密厳院
 18番・福昌寺
 21番・圓通寺

23番・密厳院    21番・圓通寺    18番・福昌寺    15番・常福寺

 44番・明光寺
 42番・清照寺

44番・明光寺    42番・清照寺    41番・龍圓寺    33番・宗禅寺 

 41番・龍圓寺
 33番・宗禅寺
見開きの案内図(所がぬけているが…)
 東光寺の石仏

46番 東光寺に安置

左の弘法大師にはモダンな生地で
 帽子とよだれ掛けが…

34番は、吉野梅郷の近くにあり15代続いた持田家が石仏・朱印を守っている。

3番 地蔵院は、七福神の布袋尊でもある。

   77番 金乗院に安置    78番 慶性院に安置

◆向かって左がそれぞれ弘法大師、77番の右は薬師如来、78番の右は阿弥陀如来となる。が…、77番では帽子や肩掛けなどがつけられ、どう見てもお地蔵様にされている感じが…南〜無。

◆34番・持田家は、13番の天澤院の北側にあり周辺は吉野梅郷である。

◆朱印ページ2を追加↓

この札所は、昭和 9年(1934)、西多摩郡瑞穂町の武田弥兵衛氏を中心として、東京善心講の人たちにより開創された。
本尊は、修行大師の石仏と、四国の各札番と同じ本尊の石仏とを対にし、奥多摩から武蔵野一円の寺院と信仰家に呼びかけ、安置を依頼して始まった。 (著:新四国奥多摩八十八札所より)
昭和46年には専用の納経帳が作られた。昭和15〜50年頃には、バスを仕立てて多くの巡拝者がこの霊場を巡っていたそうだ。弥兵衛氏は昭和50年8月、90才ぐらいまで生き、没後は奥さんが石仏管理などのお願いに各札所を奔走する中、開山所に来る巡拝者へのお世話を続け、平成17年頃、84,5才? で帰幽となった。
その後は霊場をまとめる方もなく、札所としての対応は正に伺って見て…。このまま朽ち果てていく感じがして寂しい気がする。寺院での朱印は概ね頂ける。
また、石仏が、在家や山裾・道路脇・鍾乳洞内などに安置している場合が多々あるので、その場合、多少の移管はあるが、朱印は主に当時からの管理者が守っているようで、伺って頂ける事もある。また、堂内に朱印があり、自分で押すところもある。
さらに遡ること1834年には、弥兵衛氏の3代前、武田安兵衛氏が同志の岡戸半蔵氏と共に「知多四国88ヶ所」を開創していたというのもご縁であろうか。知多霊場にも奥多摩霊場と同じような専用納経帳(cf:知多霊場サイトより)があったが、今は別の形だ。
最近、いくつかの札所では、露座の石仏にお堂を建てたり、大師堂を新しくしたり、不便な場所にあったのを、巡拝しやすい場所に移動したりと明るい話題も聞かれる。
3番 地蔵院のアケビ
朱印:p2へ続く

68番 実蔵院に安置

・遍路道中図は、広げると下図のような参拝案内図になっており、当時の巡拝順序などを知る上でも貴重な資料と言えよう。当時は一部50円で販売していたようだ。

3番・地蔵院のホオズキ

< 道中図を広げると51×36.5cm >

図中の順路(一部)を走っていた当時の「おしどりバス」

図中のおしどりバスの拡大図
山門はかなり時代を感じさせる。
9番鳳林山 長光寺の山門をくぐるとこの三門に続く

9番・長光寺 (曹洞宗)

◆長光寺 (飯能市)は、周りを山に囲まれ、通りに面した門は普段閉まっており、その左側道路から入ると、まず山門が目に入るそこをくぐると三門があり、その先に禅宗に良く見られる横長い本堂がある。
◆境内は苔むしていて風情があり、山に溶け込んでいる感じを受ける

奥多摩新四国88ヶ所霊場 p 1

 実蔵院の石仏

札所朱印のベージ2へ

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