▲あきる野市小和田にある6番広徳寺の境内には、いろいろな木々の紅葉が入り混じって晩秋の一景を彩っている。
◆写真右。本尊・阿弥陀如来は大悲願寺観音堂に合祀され、今はかつての西蓮寺への上り口だけが
残っている。そして周辺にはひっそりと曼珠沙華が咲き、何処かしら「夢のあと」と言う感じを受
ける。かなりの高台にあるので、周囲の自然や集落が見渡せる。西側には沢山の墓地があるが良く
整備されている、寺がなくなったので、弔事はほとんど神式だと言う。
◆写真上。もはや西蓮寺はなく、跡地の南側一角には
六地蔵が並んで、静かに五日市盆堀の山郷を見守っ
ている。寺の跡地は地域の広場となり、子供用遊具も
整備されている。
*ご詠歌は、「深山路を尋ねてここに西蓮寺 弥陀の浄土の 心こそする」
◆4番・眞鏡山 西蓮寺 (廃寺)
◆写真左上、右側の参道を下って行くと、玉林寺の隅々まで手入れされた境内へと続く。坂の上からは五日市の山並みが良く見える。
◆写真右上、山門脇の大きく白い「あ・うん像」が参拝者を迎える。この寺の上側には桧原街道が、下側には秋川が流れている。また、左の扁額「涅槃門」は、寺の西側に位置する門の天上にはめ込んである。
*ご詠歌は、「秋川の流れに清き玉林寺 弘誓(ぐぜい)の舟に 乗りてこそ行く」
◆5番・ 鳳凰山 玉林寺
◆写真左上。6番・龍角山 広徳寺。桧原街道から南側を流れる秋川に架かる小和田橋を渡り、今度は長い上りの参道を進むと、霊地に相応しい山と大きな木々に囲まれた広徳寺の総門にたどり着く。季節がら、参拝者が大勢いて、絵を描いていたり、盛んにカメラを向けている人たちもいて、紅葉を楽しんでいた。
◆写真右上は、苔むした萱葺きの山門と紅葉が融和してきれいだ。皆、近くより少し離れたところから立ち止まり見ていた。
*ご詠歌は、「御仏の福田ひろき広徳寺 菩提の種を蒔けよ 人々」
◆6番・ 龍角山 広徳寺
◆写真上は、かつての7番・地蔵院で、明治期廃仏毀釈により廃寺となり、建物は昭和38年9月まで留原地区の寄合所として使用されていたが、その後土地は売られ、昭和40年4月から保育園が建てられている。本尊は大光寺へ合祀。
◆写真右は、地蔵院があった頃、檀家だったお宅に昔から伝わる「木食白道作 恵比寿大黒木像」。
白道上人は甲州、武州など木食行脚をしながら、各滞在宅に木像を残していった。その数凡そ千数百体に及ぶとか。
因みに上野原市では、この木像を市の文化財としている。
◆写真上左は、かつてここに地蔵院があったが今は保育園になっている。
地蔵院は昭和の前期、本尊・地蔵菩薩が8番の大光寺に合祀され、残ったお堂は 長らく留原(トドハラ)地区の寄合所として使われていた。その後土地は八王子の寺 に売られ、昭和40年4月に保育園が開園し現在に至る。
*ご詠歌は、「一筋に道行たたえ地蔵尊 さ竹の河原 迷う幼子」
◆7番・ 天王山 愛染坊 地蔵院 (廃寺)
◆写真左上。三島神社拝殿左側に建つ武多摩神社
本殿は、元は光厳寺・塔頭(隠居寺のことも含む)で
ある慶雲寺が持つ不動堂だったが、明治期の神仏分
離令により武多摩神社に改称となった。中には不動
明王と毘沙門天が安置されている。
*ご詠歌は、「冨蔵の山に旭の輝きて われ罪とがも 消ゆる白霞」
◆1番・ 武多摩神社(徳倉不動尊)
◆写真上左は、長福稲荷。札所3番・長福庵にあった稲荷社だが、廃寺となり本尊の観音と共に光厳寺内に移った。光厳寺には、かつて5ヶ寺もの塔頭があったと言う(慶雲寺、真光院、長福庵など)が、明治期に全部廃寺となり、今は墓地が若干残されている。
◆写真上右は、どっしりとした佇まいの山門。その門をくぐると左側に長福稲荷と布袋尊(武蔵五日市七福神)がある。また、山門前を南に進むと、五日市でも有名な大きな山桜の古木があり、その花の咲く時期は大勢の行楽客が押し寄せる。
*ご詠歌は、「梅さくら植えて年向る観世音 さながら花の 浄長なるらん」
◆3番・ 長福庵 (光厳寺寺中)
◆写真左上。光厳寺は臨済宗建長寺派の寺院で、かつては五日市地方で24もの末寺を抱える古刹であり名刹である。境内東側の崖には有名な山桜の古木があり、桜が咲く時期には大勢の行楽客が押し寄せる。
左の扁額「仰之弥」は、論語の「これを仰げばいよいよ高い」から来ている。【 自分は努力を尽くしているが、先生(孔子)の教えはそびえ立つように気高い】
◆写真右上は境内に咲くピラカンサ。他にもいろいろな花が咲いている。背後は、本堂と庫裏をつなぐ長い渡り廊下。
*ご詠歌は、「釈尊の御法り(みのり)かがやく光厳寺 二世安楽の 誓い頼もし」
◆2番・ 鷲峯山 光厳寺(コウゴンジ)