◆ときがわ町から、鳩山町や越生町に点在する入比坂東33所観音霊場と御詠歌を紹介しています。<1番〜7番>
【御詠歌】 ただ頼め 五逆十悪もらさじと すくふ千手の 深き誓ひを
         <ときがわ町 西平地区>
 【写真上】は1番の女人堂で、堂の左右には札所順路板がある。県道172号の宿(しゅく)という交差点を北に向かうと、まもなく左側に見えて来る。その上り道は坂東9番・慈光寺への参道である。慈光寺では札所1、2、32番のご朱印も頂ける。
 【写真左】お堂の脇を流れる渓流の音に、参拝時の心もしばし和む。渓流は下ると都幾川に注ぐ。

【御詠歌】 彼の岸に 至りて拝む小幡堂 弘誓(ぐぜい)のふねの わたしのりいで
            <西平 石場地区>
 【写真左】は県道172号の西平交差点そばを流れる都幾川に架かる瀧の鼻橋で主に歩行者用。この橋を左方に渡ると自治会館があり、その隣りに小幡堂【写真上】がある。小さなお堂だが、右側には札所順路板が目印のように建っている。
 ご朱印は、女人堂と共に坂東9番の慈光寺で頂ける。

【御詠歌】 あきらけし まとけき影とよく見れば こころのうちに 有明の月
         <ときがわ町 瀬戸地区>
 【写真上】は皎圓寺で臨済宗の寺院である。境内は大きな広葉樹がたくさんあり、緑一杯に囲まれ鶯の声も木霊する。県道70号沿いの瀬戸地区に寺の大きな標石が建っているので、左折して参道を西に進むと、上りながらこんもりとした林の中に本堂が見えてくる。境内のアジサイはその時期大変きれいである。【写真左】は本堂奥の高台に建つ観音堂で聖観音を安置する。また屋根は最近塗り直されている。

【御詠歌】 六つの道 一つになして仏堂 みちひくみてに すがりてもゆけ
         <ときがわ町 馬場地区>
 【写真上】はかつて4番の仏堂があった跡地の入口に建つ古い地蔵の石仏や石碑。地蔵の右の石碑には「西国・坂東・秩父百箇所供養塔」と銘があり右側に札所順路板がある。かつて凡そ100坪の敷地に大きな仏堂があったが、大正年間にお堂は移築され跡地は馬場一族の墓地になった。石仏は墓地への上り口にある。【写真左】は堂跡の周辺に広がる田んぼと愛宕山を望む。また、本尊は廃堂になった後不明。その後地域の馬場本家宅では毎年5月に花まつりが行われ近所中から集う由。


県道172号から南に入った馬場地区は
山や田んぼがありのどかな所で、
南北に八高線が通っている。
【御詠歌】 藤坂は 松にちぎりて幾千代も 絶へぬ御法りや 都幾川の春
           <ときがわ町 田中>
かつての円正寺跡地
 【写真上】は円正寺の庫裏があった跡地で、今は百日紅などの木が立つのみ。かつては前の県道を挟んだ向かいの墓地の一角に萱葺き屋根の円正寺があったが、住職不在中に火事で焼失。その後写真の地に小さな庫裏(仮住まい)が建てられたが、住職没後、建物は整理され跡地のみとなる。【写真左】は県道172号沿いの藤坂地区に建つ5番の札所順路板で、その路地の奥が寺の庫裏跡。


曲がっていた順路板を直す地域の人
【御詠歌】 十般の 弘誓の船の一ように こころのごとく 祇園にぞ着く
       <ときがわ町 本郷坂下地区>
祇園堂の跡地に残る札所順路板と石仏
 【写真上】は祇園堂の跡地で、木が生い茂り、通りからは分からないが当地に立てば、白い札所順路板と古い地蔵群が、かつて6番があった場所だと偲ばれる。南側には田んぼが広がっている。また本尊の観音さまは不明。 【写真左】は繁みの奥にある地蔵の石仏群。この辺はその奥の墓地と堂の跡地も含め坂下家の敷地だという。この坂下家も今は数少ない札所を記憶する。この地区も仏事は神式が多いという。

【御詠歌】 世の音の よしあし見れば明覚の 台(うてな)ににやく 救はざらんや
         <ときがわ町 本郷地区>
 【写真上】は7番の観音寺で、江戸中期より近代まで寺子屋として栄えていたようだが、明覚小学校が出来たことでその任を終え無住になっている。管理と朱印は北東側の山を越えた真言宗の光明寺で行う。また、寺は「日向ぼっこの観音さま」としても親しまれている。【写真左】は境内から見渡す広大な田んぼと愛宕山を望む。向こうの林の中にはうねるように都幾川が流れている。



都幾山 女人堂