◆新潟市から、新発田市や五泉市、阿賀野市などに点在する蒲原観音札所を紹介しています。【1番〜7番】
−蒲原観音霊場は、凡そ270年前に長楽寺の住職により開創された−

【写真上】は阿賀野市寺社甲にある福隆寺と「大悲閣」の扁額で、境内の周辺は広く田んぼの囲まれ開放感がある。山門はかなり古く時代を経ている。
 縁起によると、735年頃、草堂として開山し、その後千手院となり、さらに源頼朝公の庇護により福隆寺と改めた。 福隆寺は「越後88ヶ所40番」の札所を兼務する。
【写真左】は福隆寺の本堂で、ガラス窓が多用され、寒い雪や曇りが多い越後の冬も、堂内に多くの日差しを受け入れる。
 縁起によると、応仁二年(1468)の開山とされ、境内には大イチョウの大木が多数あり、心字池もある。4月と8月の17、18日には縁日も開かれるという。
 寺は、阿賀野川と平行して走る49号線、通称:若松街道の草水地区にあり、藤戸川沿いに山道を入っていくと見えてくる。参道をゆっくり上がると大きな杉木立の中にうっすらと山門【写真上】が現れる。寺院は方丈【写真左】を奥の中心にして手前の山門まで回廊でつながっている。写真の扁額の梵字は、 "吉祥草"で釈迦が悟りを開きし時敷いていた草と云う。また、寺の前を奥に進むとキャンプ場や宝珠温泉に続く。
 
  観音堂は、昼なお暗き杉木立の中にある。かつて行基菩薩は写真右の大銀杏の枝で本尊十一面観音を刻んだとされる。また、康平年間に源義家公が藤原武衡(かねひら)を征伐に赴いた際、軍旗が突然の風に飛ばされ当山の木末にかかり、この風により戦いに勝利した事でここに堂舎を建て荘田を寄進したとの縁起がある。
 縁起によれば、開山は大同年間(806〜810と)され、雷(いかづち)山のふもとにあるので、雷電山と号する。またこの地域の雷城主の太田氏の娘、菊姫の仏名が東光院物語の中にに残されている事から、太田氏とは深い関係であったようである。【写真右】は堂内にある欄間には見事な龍の彫り物が見れる。堂の裏側には早出川が流れている。
 永谷寺は、縁起によると永正年間(1504年頃)群馬の玉泉寺の住職によって開山された。その300年後の文政年間に火災となり4年後に再建されたものだという。
 寺は県道17号の水戸野地区にあり、西側には仙見川が流れていて其の先は早出川に合流する。4番の東光院からも近い。
 
 正圓寺は延暦15年(796)、当初は伝教大師により開山された天台宗の寺院であったが、その後真言宗に改宗された。平安時代末期には、荘園主の祈祷寺で、さらにその後はこの地域の藩主・村松氏の祈祷寺になった。 【写真右】は、観音堂の天井に描かれた雲龍画。
 五泉市は、ニットやメリヤスの産業で有名で、市内各地にそれを扱う会社や機業がある。
 興泉寺は、縁起によると文明年間(1470年代)に開山され、当時は興隆寺と称していた。永禄年間(1560年代)には、五
泉城主で甘糟景継公がここの観音さまの霊験により40回余りの難を逃れ、敵を打ち払ったという事で堂宇を寄進して興泉寺に改名された。 その後、天保年間(1840年代)に今の堂宇に再建されている。
 【写真左】 江戸時代、住職が所用のときに使用していた籠で、時代と格式を感じさせるものである。本堂内の天井に吊り下げられている。