◆新潟市から、新発田市や五泉市、阿賀野市などに点在する蒲原観音札所を紹介しています。【8番〜14番】
−蒲原観音霊場は、凡そ270年前に長楽寺の住職により開創された−

 五泉市内で最も古い真言宗の寺院といわれ、康保年間(965〜968年)に開山されたという。【写真左】は、本堂右手にある仁王門で、これをくぐり百段を越える石段を上がったところに観音堂がある。
また、冬季には雪で参拝困難のため、本尊の観音さまは下の本堂に安置しているという。
 【写真右】は、本堂内にある観音さまの御詠歌の板碑で「参るより なほいく度も 誓いして 心丸田の 山ぞはるけき」とある
 信越本線 古津駅の東口から山間に向かうと、朝日地区の高台にあるつばき山公園があり、その一角に、山に囲まれた普談寺はある。近くには「花と遺跡ふるさと公園」や「県立植物園」を有する広大な場所もあり散策も楽しい。
 縁起によると、552年ころ泉州の海で、梵鐘の響きが波間に聞こえ、しかも光輝いていた。そこで、海に入って探すと楠の箱が波間に浮かび輝いていた。それを拾い上げ天皇に献上した所、中には十一面観音が光明を放っており、観音さまはすぐにこの地に返されたとか。普談寺は真言宗の寺院で、「越後88ヶ所41番」や「越後33観音30番」を兼務する。
 
 信越本線 新津駅の東側には新津川と能代川が流れており、その間に観音寺はある。
 縁起によると、観音寺の本尊・聖観音はこの地を治めていた上杉家の家臣、新津丹波守の家に伝来されていたもので、疫病退散の法力を報恩として一堂を建立し、この聖観音を安置したという。観音さまは上宮太子の御作といわれる。
 【写真左】周辺にはレトロな雰囲気の残る民家が多数あり、今も手を入れながら大事に残されている。
 【写真上】手前の門には金剛力士像が安置され、奥が観音堂である。
本尊の十一面観音は、12番・大栄寺の観音さまと同じ一本の木から作られているとか。
 【写真左】観音堂からすぐ堤防に上がると、阿賀野川に架かる阿賀浦橋(国道460号線が通る)と、遠くに粟ヶ岳連山が見える。
 橋を渡って左に行くと瓢湖がある阿賀野市の市街地に入り、そこにも蒲原札所が点在している。納経は12番の大栄寺で。
 12番・大栄寺は、曹洞宗の寺院で、縁起によると寛永年間(1630年代)、地域にあった満光寺、極楽寺、得船寺が合併して大栄寺となった。
 寺は参禅の北越研修道場として、多くの修行僧が作務をしている。また、近くには元豪農の館、北方文化博物館があり、見学も出来る。
 【写真左】は朱塗りの中門で、きれいな彩色が施されている。
 11番の観音堂は満願寺地区にあり、北側には小阿賀野川が流れて阿賀野川に合流している。大栄寺はその小阿賀野川を渡ると沢梅(そうみ)という地区にある。11番から歩いてもほど近い。また、阿賀野川沿いを下流に進むと13番の法幢寺に行く。
 天正年間(1580年代)に五泉市の四ツ屋地区から移転して開山したという。観音さまは春日の作とされる。
 寺の東側には阿賀野川が流れており、川沿いに3kmほど下流には14番の東陽寺があり、近くの大阿賀橋を渡ると対岸には15番の長安寺がある。周辺はコシヒカリの田んぼが広がっている。
 【写真左】古い山門と囲まれた板塀、大きな寺の標石などみな時代を経ているものである。
 縁起によると、東陽寺は当初永称庵と呼ばれ別の地域にあったが慶長年間(1598年頃)、五泉市の吉祥寺住職により今の場所に移転。境内には多種の石碑が立ち並ぶ。寺院は何度かの火災に遭ったが、昭和5年に再建されている。
 また、本尊・正観音は行基菩薩の作とされるが、明治期の火災で、記録が焼失したため、詳細は不明という。西に進むと通称、新潟駅裏と呼ばれる地域に鳥屋野潟(とやのがた)と呼ばれる広大な湿原があり、市民の憩いの場所となっている。