◆児玉町から美里町、本庄市、神川町などに点在する児玉三十三霊場を紹介しています。<札所8番から14番>
 【御詠歌 : いくたびも まいる心は はつせ寺
             うつせし御霊(みたま) ここにおろがむ】
【写真右上】は8番・長谷観音堂で、30番の渕龍寺別院となっている。本尊の長谷観音は、厄除け観音として昔から児玉党を始め周辺の武将からも尊敬されてきたという。7番天龍寺や9番の円通寺からも近いところだが、細い道が入り組んでいるので観音堂はやや分かりづらいが散策しながらの札所移動もまた良い。
【写真左】は、お堂の南側に広がる景色で、お堂のそばには別の寺院や食事処などもある。
 【御詠歌 : さきがけて 梅の香りや 円通寺 浄土の華も 四季さかりな里】
【写真右上】は9番・圓通寺で、真言宗の寺院ある。かつては大光山 星光院 圓通寺と称していた。縁起によると、大同年間坂上田村麻呂が虚空蔵尊を信仰し、大願成就のため当寺七堂伽藍堂塔を建立したという。また鋳物師の菩提寺にもなっており、珍しい鋳物作りの墓塔が残っている。また、御仏に供える魁の梅は、近傍随一と言われ美しい花を咲かせる。特に通りから山門【写真左】までの参道両脇には梅の木が整然と並んで植えられ、開花の時期は見事である。

 【御詠歌 : 分けいらば 御光うれし 直正寺 御釈迦如来の 古刹ゆかしく】



【写真右上】は10番は、戸田山 般若坊 直正寺で臨済宗の寺院である。縁起によると、徳治の般若寺古刹を移設したもので戸田又兵衛の菩提寺にするために小庵を造り、般若坊を迎えて先祖供養することから始まった。その後又兵衛の子、五郎衛門直正の時代になった時、庵を寺にし直正寺となった。この地は旧跡にちなんで般若谷とも呼ばれている。【写真左】は文殊堂だが、本尊は別に移管されている。また、扁額は「ゼン・サン・サン」だが意味は不明。

  【御詠歌 : ふだ場所を めぐるあんぎゃ 秋の山 紫雲になごむ 御ほとけの声】
【写真右上】は札所11番・聖徳山 光政寺 本覚院と称し真言宗の寺院である。寺伝によると、この寺の奥の院 十二天社は、南朝の巨蔵人光政を祀る光政神社の別当寺であったことから古刹となっている。以前は十二天神社にまつわる実録寺宝什器が多くあったが、度重なる火災により焼失している。防火対策のためか変わったデザインの本堂で正面はシャッターになっている。
【写真左】は本覚院の門前に建つ旧本堂で、今はすっかり朽ち果てているが当時の重厚さが偲ばれる。

 【御詠歌 : 明けそめの 伏龍山に たより来て 願いにうれし 松風の音】
【写真右上】は12番・大興寺と称し臨済宗の寺院で児玉郡美里町広木地区の高台にある。寺伝では応永年間、慶徳山大光禅寺と称していたが、時を経て小倉左中将元英山号を伏龍山とし、寺号を大興寺と改めたとある。
【写真左】は、本堂の左手の塀沿いに咲くアヤメの群生で、塀の向こう側には13番の常福寺の屋根が見下ろせる。また、境内や参道にはいろいろな花が植えられており巡拝者の目を和ませる。

 【御詠歌 : 巡り来て 願いをかけし 池の坊
            清く湧き出ず 曝井(さらしい)の里】
【写真右上】は13番・広木山 常福寺で真言宗の寺院である。縁起によると、天平年間、ここの領主桧前舎人が堂宇を建立したことに始まるという。また、この地域は水に乏しいため、山を開き、堤防を築き約四丁余歩の池を作ったという。現在「摩訶の池」と呼ばれ、弁才天を祀り、毎年大般若の法要が営まれる。
【写真左】は、山門右の塀沿いに併設される大きな通用門で下側は杉板張りになっている。山門前にはグミの大木があり、5月にはたくさんの赤い実をつける。

 【御詠歌 : ひたすらに 己が願いを かけるべし
             智慧徳ともに かのうなるらん】
【写真右上】は14番・稲荷山 先手院 智徳寺と称し真言宗の寺院で、美里町駒衣にあり、通常は無住。国道254号の駒衣から北に入った所にあり、13番の常福寺が管理している。縁起によると、開創年代は不詳という。本堂は宝暦年間に建てられた由。口伝によると、寺の入口に不思議な柿の木があって、変化の柿と呼び、心悪い人が食べると渋く、心良き人が食べると甘いという。
【写真左】は境内南側に広がる秩父方面の山々で、高いのは陣見山。管理は13番の常福寺で行っている。