◆児玉町から美里町、本庄市、神川町などに点在する児玉三十三霊場を紹介しています。 <22番〜28番>
 【御詠歌 : 陽雲寺 森には既に 太平の 武田の遺跡 しのぶみたまや】
【写真右上】は22番・陽雲寺で曹洞宗の寺院である。周辺は広い田んぼが見渡せ開放感がある。寺の縁起によると当初は臨済宗の寺院で満願寺と称していたが、新田義貞公が境内に戦勝祈願のため、不動堂を建て新田勝軍不動と呼んでいた。
 その後長禄年間に曹洞宗に改宗。のちに上州と武州の国境鎮撫とした武田氏の庇護のもと陽雲寺に至る。場所は高崎線 神保原駅の北東にあり、児玉霊場の中で一番北に位置する。【写真左】寺の周辺は田んぼが広がり、あぜには曼珠沙華が咲く。
 【御詠歌 : 義賢(よしかた)の 寺領鎮もり 遥かなる
                神流の流れ 杉にこもれる】
23番・南無釈迦牟尼佛
【写真右上】は士峯山 福昌寺と称し、曹洞宗の寺院である。縁起によると、福昌寺は寛永年間、木曽義仲の父の菩提のため建てられ、士峯院と号していたが「北条・瀧川の合戦」で伽藍などみな焼失したと云う。
その後、陽雲寺の住職により諸堂を建立し、福昌寺と改名される。
【写真右】庫裏では檀家さんが作ったマユ人形の六地蔵が迎えてくれる。
 【御詠歌 : 野をもすぎ 里をもゆきて 大御堂
             寺へまいるは 後の世のため】
 札所24番は、真言宗の阿保山(あぼさん) 真光寺 吉祥院【写真右上】と号す。縁起によると、大同元年に武蔵野介阿保上人が開基とあり、七堂伽藍や十二坊も建てられたとある。境内には阿弥陀堂があり、それが近隣人々の信仰篤く、以って地名大御堂となる。時は延元二年、兵火により伽藍など焼失。後に阿保肥前守など阿保一族の修理守護を受け現在に至る。近くには、21番・福昌寺、25番・上松寺などが点在する。
【写真左】は、重厚な山門と、大きな寺の標石。
 【御詠歌 : 馬の背に 神流の流れ 護りつつ めぐみは深し 上松の寺】
【写真右上】は25番・上郷山 蓮華院 上松寺と称し真言宗の寺院である。寺伝によると、開創などは不詳であるが、軒瓦の十六の菊花弁があることよりかつて格式があったと思われる。
 神流川の渡しの要所を眼下に武州・上州の国境を鎮護する馬頭観音として長らく人馬に憩いの場を与えてきたと言われる。寺の周辺は麦畑が広がり、北側には国道254号が通っていて、西に進むとほどなく神流川に差し掛かり、渡ると群馬県藤岡市となる。【写真左】は境内に咲く白ぶちテッセン。
 【御詠歌:たまゆらの 法輪の慈母 仰ぎ訪て
            無礙やすらけく 真東寺(ましのめ)の鐘】
【写真上】は26番・梅樹山 真東寺で真言宗の寺院である。美里町木部にある。縁起によると、文明年間、応仁の乱により真言宗醍醐派より転派したという。天明の浅間山噴火と飢饉で弊害した時に本堂を再建し、19番の宥勝寺より本尊・延命地蔵菩薩を入佛したが、文化年間に火災に遭い、文政年間に再建されたとの由。
【写真左】は四国88ヶ所お砂踏の場所で、本堂左手より、裏山を回遊しながら88ヶ所巡りが出来る。弘法大師年忌事業の度に鐘楼堂や聖観音を建立させている。
 【御詠歌 : はるばると 仏の道を たずねきて 誓もあらた やすらぎの里】
【写真右上】は27番・龍清寺は、東方山 不動院 龍清寺と称し真言宗の寺院である。縁起によると凡そ780年前この地方に類を見ない榧(かや)の大木や三日月不動尊があり、七堂伽藍があったという寺伝口碑ありとか。
 また児玉町が生んだ学者、塙保己一が「群書類従」の刊行に至った基がこの寺の老僧に感化したところが大きいという。龍清寺は八高線の児玉駅と丹荘駅の中頃にあり、塙保己一の旧宅【写真左】も近い。この旧宅は「埼玉ふるさと自慢100選」にも選ばれている。
 【御詠歌 : 武蔵野の 秩父の入日 そのままに 弥陀の後光と 仰ぐ貴とさ】
【写真右上】は28番は児玉郡神川町 新里にある白岩山 光明寺で真言宗の寺院である。縁起によれば、室町時代、武蔵七党の丹党 新里四郎光明が当寺の中興開基であろうと言われている。
 国指定の文化財となる阿弥陀如来は中国から朝鮮を渡来し、関東平野守護のため、光明寺に安置されたという。寺の少し西側には神流川が流れている。
【写真左】は光明寺の山門で、その右側には「国宝 阿弥陀如来」の標石が建つ。