−蒲原観音霊場は、凡そ270年前に長楽寺の住職により開創された− |
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かつては笹神村女堂という地名であった。【写真上】の観音堂(無住)は集落の一番奥にあり集落の鎮護である。そのお堂から東側に少し離れて国道290号線が南北に走っている。 すぐ南側には折居川が流れ、下流は大通川と合流し福島潟という大きな潟に注いでいる。 |
【写真左】 国道の東側には、観音堂の管理と納経所を兼ねる天樹寺がある。そこからから南へ行くと、しなびた出湯温泉や五頭温泉郷などがある。 |
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新発田市の南東部には、東京ドーム約40コ分の広さがある五十公野公園が広がっている。その南側にいくつかある寺の一番奥に千光寺はある。広い境内には、桜、モクレンなど花木がある。
寺は無住で朱印は近くの石黒宅で管理している。墨書きは新潟市北区 太郎代にある金龍庵で書いて頂く。金龍庵は、別名:太郎代観音とも呼ばれており、「越後33観音の番外」を兼務する。ここから新潟東港も近い。
【写真左】整備された掘割がある参道で、奥に山門が見える。 |
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新発田市は、城下町として栄え多くの寺院が残されており、蒲原観音も4ヶ寺の札所を抱える。24番・白蓮寺は曹洞宗の寺院で、23番・千光寺から程近い街中にある。
縁起によると、慈覚大師が当地に巡錫のさい、五十公野山中の岩井戸山で護摩行を行い、観音のお告げがあった。またある夜に白衣の乙女が現れ、白蓮を授けたことから寺を建立し、岩井戸山
白蓮寺と名付けられた。 その後、明治の廃仏毀釈により、現在の地に移転し、岩井山白蓮寺となった。白蓮寺は、「越後33観音28番」を兼務する。
【写真左】 境内に咲くユキノシタの群生。ほかにもいろいろな花が咲いており良く手入れがされている。 |
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整備された広い歩道と桜並木、寺の板塀と
掘割には風情があり寺町の名に相応しい。 |
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新発田市の本町、中央町などは特に寺町として多くの寺院が密集している。その中央町に曹洞宗・相円寺がある。縁起によると、天文年間(1540年頃)、宝珠庵として千手観音を本尊に開山したが、その後釈迦牟尼仏を本尊とし、宝珠山
相円寺に改名された。歩道沿いには桜の若木が植えられ、4月下旬にはきれいに咲き誇る。また、寺から南へ200mほど行くと昔の新発田藩主の庭園や足軽長屋などが保存されており見学が出来る。 |
相圓寺本堂 |
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26番・興善寺は、新発田市内を東西に流れる加治川の南側の堤防下に位置し、道賀地区の広大な田んぼに囲まれた集落の中にある。西側には日本海東北自動車道が通り、新発田ICからのアクセスも良い。
【写真左】寺の北側にある堤防に上り、南側を見れば遠く会津の山々が、北側に目をやれば飯豊連峰がそれぞれ眺望出来る。
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宝積院は、806年頃堂舎が建てられ、安土桃山時代に新発田藩主が堂宇を寄進したという。
【写真上】の観音堂と【写真左】の二王門にはそれぞれ三十三度石があり、【写真右上】の三十三度石の上側には、33コの五円玉のようなリングがあり、参るたびに1コづつずらせていく。【写真右下】の三十三度石の上側には、縦に梵字が入ったマニ車があり、参るたびに回して祈願する。そして、観音堂と二王門の間の石段を介して、三十三度のお参りをするという大変な気力と体力を要する祈願場所でもある。
寺院は、「越後33観音29番」を兼務する。 |
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内島見観音堂の正観音は、足利義持公の守護仏と伝えられる。その後、将軍吉宗の時代に盗難に遭い、燕市三条の質屋に質入れされたという。
それからその店では奇病や悪夢が続いたが、お告げを聞いた地元お堂の関係者が、観音さまを迎えに行き、戻したところ平癒した。その後も度々盗難があったが、その度ごとにお告げにより戻ったという事で、一層の信仰が深まったという。
観音堂から東側には福島潟からの放水路があり、新潟東港に注いでいる。また北に向かうと東港の工業地帯や、其の中にある23番・千光寺の管理や墨書を行う金龍庵(太郎代観音)がある。【写真左】観音堂近くからの一景。景色の向こうは日本海。 |
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